米国と英語と私。

今から約25年前、中学2年生の夏休みに初めてアメリカを訪れました。滞在先はニューヨークやワシントンなど東海岸の主要都市、そして暮らしていた区の姉妹都市があったボストンの片田舎で、計2週間ほどを過ごしました。当時、通っていた公立中学校の人間関係に窮屈さを感じていたこともあって、現地の大らかな空気は好ましいものに感じられましたし、カラッと晴れた空の下で暮らした記憶は未だに感覚・映像として残っています。そして、この時の経験はその後の進路選択にも影響を与えて、高校の進学情報誌では兎に角「国際」と関する学校を片っ端からチェックしていたことを覚えています。

そして実際、一学年240名のうち2/3が帰国子女で占められる高校に進学して、高1と高3の時にはアメリカ東海岸を再訪しましたが、この頃になると早くもアメリカに対する熱量はトーンダウンした感がありました。時期としては9・11(アメリカ同時多発テロ)の前後ということで、渡米に際しては色々と紆余曲折も経験できたのですが、その上で高嶺の花だと思って付き合ってみた相手の内実が段々と見て取れるようになった時期だったように思います。

特に決定的だったのは、食事が肌に合わなかったことかもしれません。生まれつき胃腸な強い方では無かったのもあって、朝からピザ、昼はマクドナルド、夜はKFCが「アリ」とされる食文化との親和性は今ひとつで、かつ1ヶ月いると漏れなく2〜3kg太るのに辟易したのを覚えています。加えて20代の半ばに突発性難聴を患って以来、特に右耳については気圧の変化などに敏感になった中で、10時間を超えるフライトに耐えてまで行きたい場所とは言えなくなってしまいました。

事実、20代に入って以降、アメリカ本土からはすっかり足が遠のき、”彼の地”となった感が否めません。厳密には一度ハワイ(オアフ島)を来訪していますが、あれは半分くらいアメリカ生活体験型のテーマパークだと思っていますので、個人的にはカウント外です。

他方で、英語に対する好意的な感情は20代の半ばまでは残されていたように記憶しています。正直、当時の日本で生まれ育った人間の中では話す技術に長けていたようで、いわゆるネイティブとの会話は楽しかったですし、ダイレクトな物言いが許される言語環境を快適に感じる場面が多かったです。ただし振り返ってみると、使いこなせる語彙や文法が限られることで、結果として思考を単純化できた状態が脳の負担を軽くしていた側面も大きかったように思います。加えて、なんとなく始めた塾講師の稼業が思った以上に長続きして、自身の国語力が飛躍的に向上したことによって、日本語話者としての自分を肯定できるようになったことも影響しました。これは30代から仄かに実感するようになって、40代を迎えた今となっては、かなり自覚的に受け止めている自身の一面です。

さて、翻って現在。「アメリカ」への憧憬は全く消失してしまったわけですが、たとえば建国から250年で成し遂げたこと等に対しては引き続き「すげー」という気持ちを素直に持ち続けています。概ね5世代で覇権(?)を築いた事実には個人としても共同体としても学ぶ点が多い筈です。ただ、自身にとっては世界一の大国も国連で承認されている約200ある国や地域のうちの一つに過ぎず、相対的に観る対象なのだと思います。

そして、思えばこれは敗戦から数十年が経過し、グローバル化も概ね「完了」した世代の感覚なのかもしれません。たとえば、丁度2回目〜3回目に渡米した頃に最も強く影響されていた作家である村上龍氏は、基地の街である長崎の佐世保で育った影響もあって、代表作の一つである『愛と幻想のファシズム』はじめ、当時あらゆる作品において強く「アメリカ」を意識した描写や表現をされていました。それに比べると、良かれ悪しかれ米国の存在が生活に根付いた環境を生きている身にとっては、今の距離感が極めて自然なのかもしれないと感じます。

今回は、人生の断捨離を進める一環で、こうした話題を書き出して(吐き出して)みました。自分にとって行かなくてもいい場所ややらなくてもいいことを明確にしていくことで、引き続き限られたリソースを最適化していきたいものです。