共同幻想「一億総中流」の消失と2050年の贅沢。

人口動態などに基づくと、日本は順調に衰退しています。

その結果として、合理的な予測が可能と思われる約30年後、2050年頃の我が国では現在「当たり前」とされることの幾つかが「贅沢」に変わることと考えています。

たとえば、家を所有すること。

戦後、各方面の利害が一致して「夢のマイホーム」という(恐らくアメリカ発の)理想が喧伝され、実行されてきた訳ですが、そろそろ潮時かもしれません。

最終的には、「国民の何割が自宅を持つ状態が望ましいか?」を基準に、国が金利や制度を調整すると思われますが、いわゆる“持ち家率”は今より低下すると見立てています。

特に新築のマンションや新築の戸建て住宅は「嗜好品」とカテゴライズされるかもしれません。

あるいは、人間から接客を受けること。

これまでも、”一流のおもてなし”を恒常的に受けられる人々の割合は、軽く見積っても人口の5%くらいだったと思われます。

他方で我々には、コンビニ・ファミレス・ファストフード店などに於いてですら、兎にも角にも「人」を介したサービスが提供されることを当然に感じてきた歴史があります。

しかし、セルフレジへの対応に苦慮する高齢者達が徐々に市場から退出し、接客コストが「人間によるもの>非人間によるもの」となる時期が遅からず到来することを考えれば、温度感を伴った「もてなし」を期待される特別なサービスを除けば、最終的に全て自動化されるのではないでしょうか。

最後に、紙の本を読むこと。

この領域は、レコード→CD→配信という音楽業界が辿った道を殆ど後追いする筈です。

違うのは、書かれた言葉が知の獲得と富の形成に直結する点です。

まず以って、書かれた言葉を読める層と読めない層の分断が加速し、前者の権益が強固になっていくことが予想されます。

こちらは、2020年頃から俄かに露出が増えた印象がある「メリトクラシー」や「境界知能」といった言葉と合わせてみることで、1つの文脈を読み取ることが可能でしょう。

所有権を持つ空間に厳選された蔵書を持ち、内外でもてなしを受ける生活が至高とされる時代…と書くと、贅沢の定義は意外と今までと変わらないようにも思えます。

それでも、戦後40年くらいは「一億総中流」という共同幻想を抱いてきた人々にとって、少なくないインパクトをもたらす可能性がありそうです。

その時から逆算して、たとえば「中古住宅をリノベして過ごすのも悪くない」という価値観を醸成していくことは“国民”の生活に対する満足感・安心感を保つ上で効果的で、日本は(今のところ)意外と上手くソフトランディングに向かっていると言えるのかもしれません。