このところ、「日本における適正人口は何人か?」という命題を設定して、断続的に考えていました。というのも、日常で触れる情報の多くが”少子高齢化に伴う人口減”をネガティブな文脈で語り、ピークアウトした2008年頃の人口1.28億人=「善」と論じていることに違和感を覚えたからです。個人的に「数は多ければ多い方が望ましい」という立論には常に懐疑的で、批判的に見るようにしています。
そこで、冒頭に挙げた「日本の人口は何人が最適なのか?」という問いが浮かび、まずは次のような数字を当たってみました。この問題を考える際に最も不変な要素は「国土の面積」ですので、いずれもこれに関連したものとなります。
- 日本の総面積37万㎢に占める「宅地」の割合≒5%(『2024年 土地利用現況調査』 国土交通省)
- 日本の「可住地面積(人が住むことができる土地の広さ)」≒10万㎢(『社会生活統計指標』 総務省統計局)
- 「最低居住面積水準(人が快適に生活できる空間の広さ)」≒25㎡/人(『住生活基本計画』 国土交通省)
当初は「1」ないし「2」と「3」の組合せで大まかな数字を出して…との仮説を設定していましたが、試算を行ううちに「問いの立て方」そのものが間違っていることに気づきました。考えたら当たり前ですが、これは「いくら地面があっても人は不便で愛着のない土地には住まないだろうし、その逆もまた然りだろう」という摂理を無視した机上の空論です。
そこで、問いを少し変えて「人口が減るのは悪いことなのか?」とすれば、引き続き思考を進めることができそうだと考え、軌道修正を行うことにしました。ここで日本における人口の推移を振り返ると、たとえば江戸時代中期(18世紀中頃)には約3,000万人、甲子園が約10地域の代表を集めて初開催された1920年頃には約5,600万人、そして東京オリンピック(第1回)が開催された1964年には約9,700万人という具合になります。そして各々の時代で、人々は確かに生き抜いてきたわけで、それぞれに豊かさも貧しさも、楽しさもつらさもあったのだろうと想像できます。
それではなぜ、今になって「人口減少は由々しき事態だ」と喧伝されるのか?と立ち戻って考えてみると、やはり答えは現状維持バイアスとノスタルジーの2つに行き着く気がしました。前者は心理学の分野で1988年に提唱された説だそうで、「未知のものや変化を受け入れず、現状維持を望む心理作用」といった風に定義されます。体感ですが、常に人口の過半数以上はこのような心の動きを見せるように思えますし、きっと彼らは人口が増えたら増えたで「人口爆発が危機を招く」という論に同調する筈で、ここはヒトの性として受容すべきとも考えます。
むしろ厄介なのは後者で、日本が成長を謳歌していた1960年頃~1990年頃の記憶は根強く、どんな僻地であっても公共の交通機関やサービスが行き届き、安心して暮らせる社会こそが理想郷であるとの思い込みから、我々はなかなか抜け出せずにいるように感じられます。この頃は日本の戦後史の中で最も勢いと希望に満ちていた時期であることは疑いようがなく、成長を地方に波及させつつ、全国津々浦々まで不便の解消に動くだけの余裕があったタイミングでした。金融機関に対して1927年から行われていた「護送船団方式」の論理が、国土全体の発展にも当てはまった稀有な時代であったとも言えます。ある意味で我々は、1973年に90万部のベストセラーとなった田中角栄の『日本列島改造論』などで謳われた、日本全国の均質な発展という”幻想”から未だ抜け出せずにいるのかもしれません。
ただし、そうした中でも「人が減る」という現実と、それに伴って起こる社会の変化は着々と進行していきます。たとえば数日前にJR東日本が利用者が少ない地方路線(36路線71区間)の収支を公開し、2024年度の赤字が約790億円に上ったとの報道がありました。当面は採算性を理由にした廃線は行わないとしていますが、いずれ決断の時を迎えることは明らかです。ちなみに赤字路線の中でも最も事態が深刻なのは陸羽東線や羽越本線(村上―鶴岡間)で、やはり東北地方は厳しい現状に置かれていることが見て取れます。同地は元々、仙台平野を除いて平地が少なく、(冷たい物言いなのは承知していますが)3・11の経験から太平洋沿岸部も常に津波に襲われる危険性があることが明らかになって、居住のインセンティブが限られる地域です。
そのため将来的には、東北6県(7県)においては県レベルでの合併が協議されてもおかしくないと考えますが、その際には種々の利権と感情論が混ぜ合わせって、阿鼻叫喚の事態を招くことが想像に難しくありません。きっとNHK辺りのニュース番組や報道特集では、限界集落となった地域に最後まで留まる腰が曲がった老婆の姿が映し出され、ご先祖様から受け継いだ土地云々というエピソードが紹介されるに違いありません。そうなった時に、先立つものが無い(収支が合わない)という事実を踏まえ、憲法第22条によって保障されている「居住・移転の自由」に最大限の配慮を示しつつ、落としどころを冷静に議論できるか?に、我々の進化と成長が示される筈です。
要は、なるようにしかならない訳ですが、その中で個々人がどう振る舞うか?によって、シナリオの行き着く先は変わってくることになります。今回はいわば「問題提起編」でしたが、期せずして少し長くなってきましたので、「解決編」はまた改めて取りまとめて公開したいと思います。
※参考