物を書きたくなって、いざ筆を取った時、一人称と文末表記の選択の二つをどうするか?で、いつもモヤモヤした気持ちにさせられる。
それで、ここを明快にしておかないことには、今後の執筆に支障を来たすと分かっているので、ひとまず暫定的な解を決めようと思う。
まず、一人称。知っての通り、日本語の人称表現は多彩だ。男性であれば、たとえば私・僕・俺。おそらく、これらが三大勢力だろう。加えて、ここ最近だと儂(わし)の呼称も散見されるようになって、いよいよ面倒くさい。
そして本来、一人称の最適解は相手との相対的な関係性に基づいて決定されるため、(不)特定多数に向けて書く場合、選択の難易度は必然的にグッと上がってしまう。
こうしたジレンマに対する解決案の中で、これまで目にして秀逸だと思ったものが一つある。それは「そもそも一人称を放棄する」という発想だ。すなわち、主語を明記した方が望ましいと思われる場面で「著者は」と書くのである。これは、とある研究者気質の文筆家による試みであり、なるべく主観性を廃していこうとする心意気に共感を覚えた。
ただし、書き手が正確な情報の伝達以上を文章に求める場合、たとえば随想的な性格を持たせたいとすれば、最適解は異なってくるように思われる。
そこで思い出したいのが、できれば主語など省略にしたい、そもそも明記することが野暮という日本語に特有の感性である。そう、発想を転換して、主語なんて(なるべく)書かなければ良い。実際この文章、ここまで一度も一人称を用いずに書き進めてきた。手前味噌ではあるが、そのことが理由で読みにくいと感じた人はいないはずだ。
では次に文末表記について考えてみよう。これは所謂「である調」と「ですます調」、いずれが適しているか?という話だ。述語が文末に登場することが多い中、句点の直前に置かれる助詞・助動詞によって全体のニュアンスが決定づけられるとは、どこまでも日本語は煩わしい。
ちなみに「である調」には常体、「ですます調」には敬体という呼称があるらしい。よって、以降は正式な用語を用いることとする。
さて、この点に関して、結果として常体で統一することとしたのは、ここまで読んで下さって奇特な方においては自明であろう。
判断の決め手は、この俯瞰慧眼の主旨である。副題にあるように、dialogue with myself、すなわち自分自身の頭の中で普段行っている対話を言語化したものである以上、それに適した表記は常体である。実際には、もう少し砕けた言葉遣いになっていることもあるが、概ね脳内を再現できているものと思われる。
ということで、一人称は書かない。そして文末表記は常体。以降、この方針に則り執筆を進めていくこととする。