可処分所得という用語を初めて知ったのは20代に入ってからだったと思う。それまでは税金やら社会保障やらに無頓着な暮らしをしてきたせいで、そもそも発想がなかった。
だが最近、これはなかなか便利な発想だと思うようになった。ひとまず可処分⚪︎⚪︎を「とある資源に関して自分の自由にできる割合」と定義する。そこで最も大切な⚪︎⚪︎は何だろう?と考えてみよう。
さまざまな回答が可能だが、個人的には「時間」を推したい。時間だけは、万人に等しく与えられた資源だからだ。そこで「可処分時間」という言葉に行き着くわけだが、ふと思い立ってGoogleの検索窓に入力してみると、主にビジネスの世界で既に浸透している用語
らしい。曰く、各企業の提供するサービスは想定顧客の自由になる時間を奪い合っているのだそうだ。考えてみれば当たり前の話である。
さて、ここでふと、自分自身や他者の行動を省みて、果たして我々は可処分時間を十分に有効活用してきるだろうか?との疑問を抱く。
たとえば、貴重な(はずの)昼休みに金融機関のATMに並ぶ人々。もしATMに並ぶことが好きでたまらないという人がいれば別だが、この時間を幸福度の向上や何かを学ぶ機会につなげられる人は稀だろう。であれば、ここで費やされる時間は無為となる。さらに具合が悪いのは、インターネットバンキングが整備された昨今においては、明確な代替手段が存在することである。一時期、ドラえもんに似た某氏がこうした人々を痛烈に批判していたが、効率を重んじる人物にすれば、生理的とも言えるレベルで「許せない」状況なのだろうと推察できる。自身の有限な時間を大切にしていないことは当然として、こうした状況が究極的には社会の生産性を低下させる。
あるいは、個人にとって最も多感な時期である小中高における学校教育。1日24時間で1年365日なので、人は年間8,760時間を”所有”している。これに小中高の12年間を掛け合わせると、得られるのは10万を超える膨大な時間となる。このうち少なくとも1/3は学校で過ごすとすれば、その価値は大きい。俗説として、一つの職業のプロになるためには1万時間を投下することが必要と言われる(※)が、実に3つの職業における修練に充当される。昨今、通信制教育への評価が見直されているが、30人~40人の集団を形成して受動的は時間を過ごすことに比べれば、歓迎すべき傾向だろう。こうした流れはコロナ禍でリモート授業が普及し、分かる授業は1.5倍~2倍速で視聴することが当たり前となった世の中においては、さらに加速するだろう。望ましいことである。
(※)この説には批判もあるが、既存の職業のうち競争の激しい分野で対価を得られる水準に到達したり、ありふれた仕事で卓越したパフォーマンスを発揮したりする上では妥当な水準という私見を持っている
総じて、持てる時間の希少性に囚われて深く大きな呼吸をするゆとりを失っては本末転倒であるが、可処分時間を意識した生涯を送る人の割合が増えることは、社会に対してポジティブな影響を与えるだろう。