有限な時間の中で血肉とすべき言葉達に関する考察。

30代の後半を迎えた頃から、文豪と呼ばれる作家たちの少しマイナーな作品群を楽しめるようになってきました。これまで手にとって印象に残っているのは、たとえば夏目漱石の『私の個人主義』や三島由紀夫の『青の時代』といった、200ページ前後のコンパクトな本たちです。そして今は川端康成の『掌の小説』という短編集を少しずつ読み進めています。

明治〜昭和の期間に認(したた)められた文章にはなんとも言えない味わいがあります。

敢えて一言を当てはめるなら”レトロ”?

その殆どが直接体験したことのない事柄を描いているにも関わらず、どこか懐かしさを感じるから不思議です。と同時に、昨今の文体からは失われつつある威厳や格式が微かに漂ってくるようで、読んでいて心地よい緊張感を得られる点にも惹きつけられます。

思えば近代以降の日本語とは、なんとも不思議な存在です。明治維新を期に、日本語は一度「解体」され、「再構築」されたというのが私見なのですが、情緒性に代表される日本人の特質は保持したままに、語られる思考に関しては欧米に寄せようと試みた点で、他に例を見ない構造を持つ言語となっているのかもしれません。

ちなみに、近代の日本文学が確立した時期に関しては様々な見解あると思いますが、二葉亭四迷の『浮雲』を以て1つの節目と考える説を目にしたことがあり、個人的にも妥当だと思い、推しています。こちらは明治20年に世に出た作品で、新たな言語体系が運用されてからの期間を考えると、おおよそ妥当なタイミングに思えます。

こうして考えてくると、やはり検定教科書や夏休みの課題図書として多くの日本人が夏目漱石の『こころ』に代表される文学作品に触れるのは、やはり意義深い営みなのかもしれませんね。2022年から実施されている高校課程の学習指導要領では、国語を大きく「論理」と「文学」に分けていますが、相変わらず共通テストでは明治〜昭和の小説を出典している点は慧眼でしょう。

そして言葉の教育を生業とする身としては、主に中高生くらいの年代に対して、こうした作品群を楽しむための補助線を提供していきたいものです思い返せば自身も中学時代までは全く本を読まない人間でしたから、年齢を重ねる中で培ってきた読書体験を、少しずつでも世に還元していきたいと思うばかりです。