格差論-成功の所有権-。

20年ほど前、教養課程を英語で学ぶ大学に通っていました。その際、プロパガンダを取り扱ったテキストで「優生学」という考え方を知り、当時の自分が強く惹かれたことを覚えています。

これはナチスによるユダヤ人の大量虐殺を招く一因となった稚拙な思想なのですが、「殆どの人間はバカで、能力のある人だけが選別される世の中の方が望ましい」と考えていた学生にとっては、耳障りの良いものに聞こえました。

そして、実はこうして書いている今でも、基本的な考え方は変わっていません。と言っても、「バカは皆死ねばいい」と思っている訳ではなく、「能力に応じた(所得)格差(※1)は許容されるべき」というのが立ち位置です。

この際、何を以て能力とするか?に議論の余地が大きいこと、あるいは昨今の研究では努力する才能も含めて6割が遺伝(先天性)とされていること(※2)なども踏まえた上で、それでも目指せる人は高みを目指した方がいい、という立場です。

これは恐らく、客観的な何かに裏打ちされたものではなく、その方が心地良いという自分にとっての好みの話です。

背景には、「格差によって生じる便益>格差によって生じる不便益」と見立てていること、許容された格差の中で、能力を持った個人が不遇な環境に生まれ落ちた際に、本来なら想像し難いパフォーマンスを発揮し得ることを信じていることがあります。後者の例として常にイメージしているのは、貧困層から這い上がってスターダムを駆け上がるアスリートの像です。

なお、格差を許容する前提として、いわゆる機械の平等(Equality)と公平(Fairness)は担保されるべきと考えます。そして、格差を生み出す源泉となる「成功」を要素分解すれば、運の要素が少なからず含まれることにも同意します。ゆえに、格差を是正する機会があること、そして格差が適正な幅に保たれていることの重要性も認識しています。

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ところで、「成功」は「普通には困難な目的が成し遂げられること」などと定義されますが、これまで「成功の所有権」について語られる文献に出会ったことがありません。

仕方ないので自分で考えているのですが、個人の成功に所有権が存在するとすれば、それは誰に帰属すると考えるのが妥当なのでしょうか。成し遂げた当人?、それとも周囲で支えた人たち?、あるいは社会全体?

まず言えるのは、成功の”瞬間”や”体験”そのものを分かち合うことは困難でしょうから、結果として得られた「お金」や「情報」が分配の対象となることです。

この前提に立てば、そもそも分配の余地がある「成功」は相当に限られてきます。

たとえば「普段は苦手な早起きができた」ことを「世界中の皆のおかげ」と考える奇特な考えの持ち主がいたとして、その人が社会に還元できることは恐らく非常に限定的です。

次に、これが「志望校に合格したこと」や「試合に勝利したこと」、「昇進を果たしたこと」くらいの規模になると、話は少し変わってきます。なぜなら、この時に「成功は自分の努力の賜物」とだけ考えることを広く許容するならば、傲慢な人間で溢れる世界を容認することになるからです。ただし、それでも還元する原資は微小であって、当事者がやれるのは些細なことでしょう。

最後に、「世界で初めてDNAの二重らせん構造を解明した」、「オリンピックで金メダルを獲得した」、「創業した会社が上場した」といったレベル感の成功となれば、帰属範囲がいよいよ広がりそうです。

この時、「成功が形成した資産のうち、どの程度の割合が広く還元されるべきと考えているか?」を見ることで、その社会の格差に対する許容度も見えてきそうです。なぜなら、(本稿の前半に書いたように)個人の成功と個人間の所得格差の間には、因果関係が成り立つからです。

そして、”還元率”は成功を成し遂げた個人が決めれば良いというのが私見です。特に超一流と呼ばれ、5年、10年とパフォーマンスを維持する一握りの天才に関しては、もはや私利私欲とは無縁の日常を過ごしていると思いを馳せて、信じてしまって大丈夫でしょう。

こと日本に関して言えば、今後30年くらいは国が貧しくなる前提で、国民性とも揶揄される同調圧力や嫉妬のメカニズムを上手に抑制して、飛躍する個人を(なんとなく)許容する空気を作っていくことが望ましいのですが、果たして上手くことが運ぶか…。

鍵は恐らくハレとケと仕組み化など幾つかあるのですが、長くなってきましたので今回はここまでにしたいと思います。

(※1)いわゆるジニ係数に依拠したものを想定します