我々はどこまで多様性を許容するのか?

ここ10年くらい、多様性=善とするトレンドが続いているのは周知の通りです。特にリベラルと呼ばれる界隈では顕著で、現在はこれらの人たちが影響力や資金力を有している場合が多いことから、あたかも皆が多様性を肯定しているかのようなメッセージが流通している印象を抱きます。

果たして、この流れは未来永劫ずっと続くのでしょうか?あるいは、どこかの段階で揺り戻しが訪れるのでしょうか?

先に書いたように、今の時点で「多様な社会」を積極的に推し進めているのは、割と進歩的な考えを是とする人々でしょう。こうした人たちは、おそらく人口全体の20%くらいだと思われます。

仮に今後、過半数の人が今より積極的に多様性を支持し、自らも実践したいと望むようになった場合、引き続き同様のトレンドが保たれるのか?…その推移を興味深く見守っています。

たとえば、同性婚を望む人の数が増え続けた結果、生殖活動に支障をきたし、人口が70億人→60億人→50億人…と目減りする世界が到来したと仮定します。これは突拍子もない思考実験に思われるかもしれませんが、ヘテロセクシャルとホモセクシャルを分ける因子が特定されていない以上、絶対にありえない未来とは言えないでしょう。その際に、現時点で同性婚を認めている約2割の国や地域をはじめとしたリベラルな主体の振る舞いを見ることで、我々が本当に許容できる多様性の限界値が見えてくる気がします。

(もちろん、それまでに人類は種の存続のために性交渉を必要としない存在となっているかもしれませんが。)

また、今や日本で約10人に1人が「グレーゾーン」と疑われる発達障害に関して、「個性」と捉えて暖かい眼差しで見守ろうとする空気は、人口の減少に伴って国力が衰退する中でも保たれるのでしょうか。あるいは、ますます機械が労働を代替する未来において、社会は境界知能の人々に居場所を供することを是とするでしょうか

こうして考えてくると、多様性という考え方そのものが、賢く余裕がある人々によって作り出された「幻想」という気すらしてきます。

最後にエピソードを1つ。

先日、母校の先達が創設した「リベラルアーツ21」という集まりのゲストとして、国際教養大学(Akita International University)の2期生で同大准教授の工藤先生にお話を伺う機会がありました。

日本における少子高齢化のトップランナーである秋田において、先生の研究対象は五条目という人口8,000人規模の町だそうです。そこに大阪から一家で移り住んできた自閉症のお子さんが、移住の後は割と伸び伸び暮らしていると伺い、何か今回の思索に通ずるものを感じました。

多様≒多数:少数と仮定するならば、そこに「中心」と「周辺・辺境」という要素を掛け合わせることで、社会にとっての最適解が見えてくるのかもしれません。