高校1年生の時以来、24年ぶりくらいに遠藤周作の『深い河』を再読しました。
初読時は、興奮すると口からカニのように泡を吹くことで有名だった現代文の教師Hが、授業の題材に指定したため読まざるを得なかったというのが手に取った理由でしたので、自らの意思で読んだのは人生初ということになります。
遠藤周作は芥川賞作家ですが、晩年に書かれた『深い河』は同氏の遺作とも言える位置づけでしょう。しかし、なんとなく表現が野暮ったい印象で、当時記憶に残っていたのも、主人公格の1人が大学生時代に(今で言う)非モテ男子を誑かした際、ゼロ距離まで近づいてみたら「口から食堂で食べたカレーの匂いがした」という描写だけでした。
正直、今回も読んでいて陳腐だと感じましたし、人に薦めるか?と言われたら微妙です。
ただ、自分なりには収穫があってそれは、「果たしてキリスト教は誰に必要とされているのか?」という問いに対する1つの答えが得られた気がしたことでした。
言うまでもなく、キリスト教は全世界で22億人もの信者を抱える世界3大宗教のうちの1つです。他方で、日本での布教の成果は人口の1%を信徒にするに留まっており、僕自身も幼稚園・高校・大学と計10年くらい身近な存在であったにも関わらず、どこか自分には縁遠い存在だと感じていました。
今回、そんな宗教が誰に「刺さる」のか?ということに対して、「何かしらの『罪』を犯した自覚があって、救済を求めている人」という尤もらしい解を言語化するに至りました。『深い河』は決してキリスト教のみを描いた作品ではありませんから、思えば不思議な偶然なのですが、きっと脳のどこかが刺激されたのでしょう。
さて、思えば原始的な”神話(敢えてこの言葉を使います)”である「創世記」にて、最初の人類とされるアダムとイブが神の命に背いて禁断の木の実を口にしたという比喩的なエピソードには、「原罪(Original Sin)」という特別な名前が与えられています。そして、聖書という物語に因果関係や時系列が成り立つのであれば、かなり序盤に登場する「原罪」という存在は、それ以降に経典が綴る諸々における前提の1つとなります。ゆえに、後にキリストが十字架にかけられることにも必然性が生まれますし、その行為が自身の「罪」を肩代わりしてくれたものであると理解する人にとっては、信仰の対象となることも頷けます。
人間、大概は叩けば埃の1つや2つ出てくるもので、それが現行の法律に反すれば司法の裁きを受けられますが、「7つの大罪(※)」に代表されるような観念的な不徳であれば、自らを戒めるか、あるいは誰かに叱ってもらうか…そして自戒できるほど強い人間など多くないことを考慮に入れれば、一定数のニーズが後者に集まってもおかしくはありません。
なお今回の考察に、論理的な裏づけはありません。今後、機会があれば実際に洗礼を受けた友人・知人などに拙い説として投げかけ、見解を募りたいとは思いますが、腹落ちする仮説を得られたこと自体をまずは尊重して、貴重な数時間を費やした読書から得た糧にしたいと思います。
(※)Seven deadly sins。主にカトリック教会における用語とされ、内訳は傲慢(Pride)・強欲(Greed)・嫉妬(Envy)・憤怒(Wrath)・色欲(Lust)・暴食(Gluttony)・怠惰(Sloth)の7つ。ただし聖書における直接の言及はない