文明に破壊された文化の生体験。

数日前、40歳にして初めて名古屋に来訪しました。大枠としては47都道府県を巡る旅の一環で、(失礼ながら)当初より期待値は高くなく、実際も想定の範囲内に着地した印象でした。

ただ、そこに「歴史」という軸を加えてみると、少し違った見方ができたので、綴ってみたいと思います。

まず、今回の旅で実際に訪れたのは、名古屋市の中心部と、トヨタ博物館を目当てに足を伸ばした東部(あいち万博会場やジブリパークのあるエリア)に限定されます。

その上で、市街地に対して率直に抱いたのは、「横浜と池袋を足して2で割った繁華街」という印象でしたし、いわゆる「名古屋めし」についても、糖質制限が習慣になっている身からすれば、「一口ずつ摘んで満足」という感想でした。

しかし、人々が徒歩や騎馬で移動するのが一般的で、日本の中心(重心)が今よりも西に存在していた頃に思いを馳せてみれば、もっと情緒に溢れた、文化の息づく街並みが広がっていた気がして、段々とリアルな絵が思い浮かぶようになってきています。

そこでようやく、ここが戦国三大英傑と少なからず縁のある地域であったことに合点がいきました。今から500年ほど前、1500年代の日本にとって、ここがエネルギーの中心地帯であったことに、必然性を感じられるようになりました。

翻って1600年代、徳川家康によって「清州越し」が執り行われ、現在の名古屋に当たる”人工都市”が形成されるに当たって、最初の転機が訪れたのではないか?と見立てています。

その後、明治維新に第二次世界大戦の終戦と、2つのパラダイムシフトに際して、その当時としては合理的な選択(工業都市化など)を積み重ねた結果、今の姿に至った過程が、頭の中でコマ送りの映像として再生されるようになりました。

「文明は文化を破壊する」という定説があり、これを日本国内で強く体感したいのであれば、(多少の下勉強をした上で)名古屋を訪れるのが1番なのかもしれません。

(もちろん、現地に住まう人々に対する他意は一切ありません。むしろ、一見すると勢いよく振舞っている人たちの中に感じた所在なさや肩身の狭そうな印象が、今回の考察につながっています。)

さて、そんな名古屋が数十年後に至る姿についても、最後に少し妄想してみたいと思います。まず、「日本が(中間層に位置する)外国人の受け入れに対して、どれだけ積極的になるか?」が最大の変数になると踏んでいます。

戦後から育んできた雰囲気は、多様な文化圏の人々を受け入れる土壌として適していると思います。たとえば、名古屋発祥の台湾まぜそば「味仙」の創業者は台湾人で、戦後の配給で得た小麦を使って初期の店舗を営んでいた経緯があるそうですし、歴史的な背景は存在しているのではないでしょうか。

猥雑さは転じて懐の深さになりますから、これからの乱世において、名古屋は今後も定点観測したいエリアの1つになりました。