希少なものが価値を持つ。有史以来、洋の東西を問わず、連綿と受け継がれてきた”常識”だろう。
その昔、いわゆる高齢者には価値があった。老人の頭の中には図書館1つ分の知識と知恵が詰まっていると言われ、彼らは様々な問題解決に長じていたこともあって、長老として重んじられた。
しかし、時代は変わった。
不足する知識を獲得したければ、祖父母に尋ねるよりも先にGoogle”先生”で検索する。
そして何より、街角には老人が溢れかえっている。彼らは基本的に活力に乏しいから、見ているだけで元気を奪われる。内心そう感じている若年層も一定数いることと思われる。
ここへ来て、かつて歳を重ねることで無条件に得られた希少性は完全に失われた。
高齢化の進む先進諸国をはじめ、各国は人口問題に直面している。そこで最も手っ取り早い解決手段は、不要な人の数を減らすことかもしれない。仮にそうした政策を採用する国家が登場した場合、誰が生き残る権利を有するのか?「年齢」というのは一つの有力なフィルターに成り得る。たとえば、65歳を超えて大した知見も無く社会的に無能であると判定された場合には潔くお引き取り願う。まさに現代版の姥捨山だ。
もちろん、人権をはじめとする観点から、現代においては非現実的な妄想であることは承知している。何より、一定の要件に基づいて無能の烙印を押して排除する発想は、ヒトラーを生み出した優生学の思想につながる。アウシュビッツの悲劇を繰り返してはならない。
では、人口に占める高齢者の割合が25%を占めるという社会課題を解決するには、どうするか?故・瀧本哲史氏が、かつて東大で行った講演の中に優れた戦略が示されていた。曰く、若者が高齢者の2人に1人を味方に引き入れるのである。体感だが、たしかに老人の50%とはコミュニケーションを取ることが可能だ。そして、高齢者の比率が高い社会でもあっても、半数が自分たちの権益に固執せず、社会の継続的な発展に思いを馳せることができれば、その社会や国家は次の世代にバトンをつなぐことが可能に思われる。
なお、瀧本氏が行った同講演の中で、もう一つ示唆に富んだエピソードが語られていた。それは、歴史上のパラダイムシフト、すなわち社会体制の大転換の多くは世代交代の結果として生じたものであるという話だ。
この指摘は今後の日本を考えた時、特に重要性を帯びてくるのではないだろうか。人は必ず死ぬ。団塊の世代に代表される高齢者の群れも、数十年のうちには世を去る。そうなった時、世代を跨いで大規模な富の移転が起こる。平たく言えば「相続」だ。
その頃には国家財政がさらに逼迫しているだろうから、準備や創意工夫の不足した個人・家計の資産は相続税の名目で首尾よく回収されることになるはずだ。それでも、各世代が保有する資産の構成は変化する。
日本が2050年以降も将来に向けた展望を描けるか?を左右するのは、この期間において被相続人となる一人一人、現在の30代~50代くらいの行動に懸かっていると考えるのは、果たして大袈裟であろうか。就職氷河期やバブル崩壊後の時代を経験し、右肩上がりの成長が幻想となった世代が、纏まった形で資産を得た時に何が起こるか?その推移を興味深く見守りたいと思う。