都内のFamilyMartやLAWSONで、セルフレジを見かけることが増えた。セブンイレブンは今のところ何かしらの理由で頑なに対面式に拘っているようだが、それでも決済手段の選択はレジ前の画面を通して行う店舗が普及してきた印象だ。
支払いの度に生じる定型化された煩わしさから解放されるのは、好ましい事態と捉えている。「Tカードはお持ちですか?」→「はい」→「レジ袋はお付けしますか?」→「いいえ」→「お支払い方法は?」→「iDで」→「レシートお取りください」→(無言で立ち去る)…という時間が人生の中で少ない方が、心の健康には良いだろう。
ところで、オックスフォード大のフレイとオズボーン(Carl Benedikt Frey and Michael A.Osborne)が著した「雇用の未来-仕事はコンピュータ化の影響をどれくらい受けるのか?-(”THE FUTURE OF EMPLOYMENT: HOW SUSCEPTIBLE ARE JOBS TO COMPUTERISATION?)」と題した72ページに渡るレポートが、2015年頃から日本でも話題になった。
同文書では702の業種について、各仕事・職業がコンピュータ化する時代に存続するのか?消失するのか?、10年~20年後を見据えた予測がなされており、当然ながら(?)「レジ係」は後者の筆頭であった。英語版が公表されたのが2015年なので、あと数年すれば、予測の対象となった時代が到来することになる。
さて、実際にコンビニやスーパーマーケットのレジで働く被雇用者は、こうした見立てをどのように受け止めるのだろうか?実際に従事している中で、「レジで働くことが好きで好きで仕方ない」という人の割合は、おそらく1割にも満たないだろう。であれば、単調な作業から解放されると喜ぶのだろうか?当然ながら、そう単純な話ではない。何より、彼ら彼女らは自身の雇用が維持されるか?に対して少なからず不安を抱くはずだ。勘の良い者であれば、ある日店舗に複数あったレジの一部がセルフレジに置き換わる光景を目の当たりにして、感じるものがあったかもしれない。
(もちろん小売店の業務は品出しや商品発注など多岐に渡るし、有人での店舗運営には万引き防止といった目的もあるが、ここでは敢えて無視して論を進めている。)
こうして、少なくとも2035年には日本から、そして世界からレジ係という存在は姿を消す、らしい。世界で初めてレジスターが登場したのは1878年とのことなので、ざっと150年の歴史に幕を下ろすことになる。それが先に挙げたレポートで予見された世界だ。
では、レジ係は何処に行くのか?、これが問題だ。模範解答は、新たな仕事(それも、より生産性や創造性の高い仕事)に就くというものかもしれない。コンピュータに任せられることはコンピュータに任せて、人間はより人間らしく働く時代の到来。たしかに響きは良い。だが、シナリオとしては理想を描き過ぎているように思われる。
なぜなら、高度に機械化された社会では、人間を必要とする仕事の総量自体が減少することが見込まれるからだ。そして、ヒトを介して行われる仕事には、何かしら人間でしかなし得ない付加価値が求められる。一方で、かのマイケル=サンデルによる『実力も運のうち』でも取り上げられ、俄(にわか)に耳目を集めるMeritocracy(メリトクラシー)の考え方が真であるならば、少なく見積もっても人口の数割は、そもそも「他者を喜ばせられる何か」など持ち合わせていない可能性がある。
産業革命以降、工業化・近代化を推し進めた国々では、その過程において多くの労働力が必要とされてきた。結果として、1800年を基準(1)とした場合の1人あたりの所得は、2000年時点で12倍に達したことが明らかになっている(グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』)。すなわち、過去200年の間、我々は「少なくとも人口の過半数は労働に従事して豊かになるチケットを持って生まれてくる」という「物語」を共有してこられたと考えられる。
これからの数十年で、レジ係・ライン工・清掃員に代表される単純労働が消失し、物語が刹那の幻想に過ぎなかったと突きつけられる世の中が訪れるとしたら、実は何の持ち合わせも無いままに生を受けたと悟った当事者たちは、果たして如何なる選択を取るのか。壮大な社会実験は既に幕を開けているのだろう。